2018年5月7日月曜日

偏愛メモ 『赤い盾(下)』

■P570 アルジェの戦い

P570 映画『アルジェの戦い』を見て、ほとんど知られていないフランス人の実像を知った。またベトナムの惨状を知って、それ以前にインドシナを侵略したフランス人の姿が浮かびあがってきた。そのとき、抽象的に"フランス人"と定義することが間違いであることは、自らの国を振り返れば分る。

P571 おそるべき大日本帝国の侵略史でも、何人かは抵抗して殺された日本人がいた。国民を戦争に駆り立てるものは常に利権無知である。"アルジェリア戦争"と"インドシナ戦争"の場合、戦争犯罪人を知るには、それぞれの土地で原住民を牛馬のように酷使した商人銀行家の名前を調べなければならないであろう。彼らが最大の利益を懐にしてきたからだ。

ところが従来の歴史は、政治家と軍人だけを調べて断罪し、商人と銀行家を野放しにしてきた。

■スタール夫人 596 598 606

P597 皇帝ナポレオンの最大の敵は、ロシア皇帝でもエジプトでもなかった。げにおそるべきはフランス文学史上に名を残す閨秀作家スタール夫人であった。

P598 アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケルという女性は、パリに駐在していたスウェーデン大使エリック・スタール・ホルスタイン男爵と結婚し、スタール夫人と呼ばれた。父親はスイスジュネーブの銀行家で、王制時代にフランスの大蔵大臣であったから、その娘のスタール夫人がナポレオンを宿敵として狙ったのは当然である。そこには、ナポレオンに片思いしながら満たされないという女の情欲もあった。文学史上に有名な、このネッケル家のサロンに集まったディドロ、ダランベールなど多くの知識人のまわりを、実際には無数の大資本家が取り巻いていた。

調べてみると、スタール夫人の系図は、"石油成金"の(系図47)に登場したシュルンベルジェ家やマレ家といった一族で埋められてくる。過去に語られてきたフランス文学論は、この視点から再び内容を吟味する必要があるだろう。このようなブルジョワ世界に育った早熟な文学少女は、フランス革命によってスイスに逃れ、『個人および国民の幸福に及ぼす情熱の影響について』という、よく読めばまことに興味深い題名の大著を発表した。いかにも意味ありげなタイトルではないか。情熱が国民の幸福を左右してしまう、と言うのである。

で、パリに戻れる日がやってくると、スタール夫人はこの論文を自分の情熱をもって実証しにかかった。ナポレオンをを敵にまわして筆を執ったのである。ナポレオンはナポレオンで、この女は憎しとばかり執拗に追撃し続け、逃亡するスタール夫人をジュネーブから、イタリア、スウェーデン、ポーランド、ロシアに追うほど怒り狂ったのである。閨秀作家とは、学芸に秀でた女流文学者のことだが、スタール夫人の閨秀は、文字通り閨事に秀でた"寝室の情熱"を本意としていたものと見え、どこに行ってもそこに男が現れた。

彼女の前に現れたのが、"悪の天才"タレイランであった。とりわけ"手の早い"タレイランである。フランス革命後は国民議会の議長に選ばれ、外務大臣になるかと思えば皇帝ナポレオンの侍従長をつとめ、懐が淋しくなるとロシア皇帝に金を無心しながら、いかなる体制のもとでも巧みに泳ぎまわったタレイランである。スタール夫人は、このような悪人に心惹かれ、パリではパトロンとなって互いに愛人関係を取り結んだ。

         (中略)

P606 悪の天才タレイランの右腕として官房長官をつとめたのが、ピエール・サミュエル・デュポンという男であった。ダイヤモンドに太陽の熱を集めて燃やしてしまい、この宝石が炭素からできていることを証明した天才--近代化学のすべての

P607 基礎となる"質量保存の法則"を近世ヨーロッパで発見した天才--裕福な一族であったためフランス革命のギロチンによって首をはねられた男--その天才アントワーヌ・ラヴォワジェに弟子入りしたのが、ピエール・デュポンの息子であった。

ラヴォワジェの親友であったピエール・デュポンは、当時の経済学者と定義されているが、実のところはそのような面白くない肩書の人物ではなかった。ちょうどロスチャイルド家が台頭する時代に、商人と手を組んで新大陸をものしようとさまざまな工作をしたデュポンであったが、利権をめぐってアメリカに肩入れしすぎたため投獄され、やがて故国フランスを逃れてアメリカに移住してしまったのである。

そこで今度は、息子たちと「デュポン商会」を設立したのだが、この資金を出してくれたのが、ほかならぬスタール夫人の叔父ルイ・ネッケルであった。"死の商人"の系図に、悪の天才タレイランとスタール夫人が仲良く登場し、両人が寝室でなにごとかを語り合っていたわけであるが、ふたりの会話は愛の秘めごとばかりでなく、デュポン商会をどうするかという謀でもあったと見える。やがてこのピエール・サミュエルの息子エリューテール・イレネー・デュポンがあとを継ぐと、ラヴォワジェの科学技術、スタール夫人の金、タレイランの悪知恵、この三大要素を集めて愛の結晶を生み落とした。

2018年4月29日日曜日

偏愛メモ 『モルガン家(上)』R・チャーナウ著

第6章 トラスト 二面性P192-198

P193 ただモルガン財閥は、金持ちのための社会主義を説いたから、貧乏人のための社会主義を唱える連中といつも一部似通った点があった。ピアポントと テディ・ローズベルトの考え方の似通ったもう一つの側面は、パナマ運河

P194 買収事件に見ることができる。ローズベルト大統領は、国内では行き過ぎた金融権力を厳しく非難する一方で、海外ではこれを有難く利用した。1902年、アメリカがフランス側から未完のパナマ運河を買収する資金として、連邦議会がローズベルト大統領に四千万ドルの支出権限を与えた。その二年後、ピアポント・モルガンは、この史上最大の不動産取引の資金面の責任者として、フランスへ行って支払の金塊の現送を監督し、残金を外貨で支払った。

また、これと前後してコロンビアから分離独立したパナマ共和国が、運河地帯の永久使用・占有・支配権と引き換えにアメリカから支払いを受けることになると、J・P・モルガン商会をパナマ政府のウォール街での財務代理人に任じたので、同商会はアメリカ政府からの支払金を一手に取り扱う権利を得た。(中略)

このように、ローズベルトとモルガンは非難攻撃し合っても、その背後にはいつもある程度有無相通じた動きがひそんでいて、両者が大きな敵意を抱いているかに見せかけたものの、実際はそれほどでもなかった。

         (中略)

P197 ピアポントの欲望をすっかり満たせる女性がいたかどうかについては、はなはだ疑問に思える。ピアポントには--礼儀正しい銀行家と極端な好色家--二つの側面があって、それを非常に苦労して一緒に結び付けていたが、一つのものに融合することはできなかった。そのため、女性に対する彼の態度は、いつも相手によって極端に違った。銀行内で女性を従業員に雇うのに厳しく反対し、女性とは商談もせず、まったく別世界の住人と見な

P198 した。ところが、自宅を訪ねてくる女性客にはまったく別人の態度で接した。ある女性の来客が、あなたの自宅ではとても面白い人なのに、職場では恐怖の的だという噂を耳にしたわ、とピアポントをからかったことがあった。ピアポントは、顔を赤らめて抗弁し始めたが、やがて「どうもあなたの言う通りかもね」と言った。

ピアポントにとって、結婚は思慮分別を必要としたが、貞節を要求しなかった。彼はかつて同僚に向かって「人間というのは、いつも自分のやることについての二つの理由--まことしやかな理由と本当の理由--をつけるものだ」と述べたが、ウォール街の良心を自認する人にしては、本心を打ち明けた言葉だ。

第11章 爆発 第一次世界大戦後 パリ講和会議での役割など P332-340

P334 第一次世界大戦に伴うユダヤ系投資銀行の退潮につれて、J・P・モルガン、ナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクの三行から成るヤンキー連合勢力が、ウォール街を牛耳るに至った。(中略)

P335 第一次大戦が終わると、金融界の外に対する風向きが変化して、経済と政治の混じり合った領域が生まれ、銀行家が政府の大使として働く例が増えてきた。この<ドル外交の時代>の到来は、モルガン財閥ではきわめて顕著にみられ、やがて同財閥は一種の影の政府に発展し、政府の政策と連携して行動することになる。(中略)

P336 ジャックモルガンが性格から策を弄することができなかったのに対し、ラモントの政治的な考え方は柔軟で、民主、共和どちらの党の政治家とも話を合わせられた。(中略)

P337 彼のこうした度量の広さは、時には信念に欠ける無節操と変わらぬところがなくもなく、日和見気味の場合すらあった。国内経済の諸問題では、ありきたりの共和党的考えだったが、国際機関や市民的自由の問題となると、民主党の知識人層がウォール街にしては、<稀有な人物>と驚くほど、彼らの好みに合うリベラルな意見を抱いていた。

晩年には、ハーバード・フーバーと並んでフランクリンローズベルトといった、両極端の大物政治家をその親友のうちに数えたものだ。

第12章 彷徨 中国借款団そして日本とのかかわり(1920年代前半) P370-378

P373 穏やかならぬラモントの中国視察旅行と比べると、帰途の1920年に日本まで足を延ばした旅は、はるかに楽しいもので、これがきっかけで日本と親しい関係が生まれた。当時の日本は、すでに<アジアの英国>と呼ばれるほどで、ラモントにすれば最高の投資推奨対象であったし、日本とアメリカの両国が太平洋地域で優勢になるにつれ、従来より緊密な金融関係を結ぶべき時機が到来していた。

日本も合衆国と同様、大戦中に船舶や軍需品を連合国に売って大いに繁盛し、その金準備は百倍にも増え、アメリカにとっては第四位の大きな輸出国となっていた。

政治情勢も幸先よく、ラモントの出会った当時の日本には、欧米の銀行家たちと進んで交際を求め、新しい外国勢力に国の門戸を開放したがる、リベラルな考え方の人々がいた。その頃は、開明的な貴族階級が軍国主義者たちを押さえていた。日本経済を支配して

P374 いたのは、財閥--つまり核となる銀行のまわりに集まった商社と企業の複合集団--で、急速に海外へ進出しつつあった。そして、日本と英国との長年の同盟関係が弱体化するにつれ、その穴をアメリカ合衆国が変わって埋め始めていた。

第17章 ホーリー・スムート関税法 P506


第17章 大恐慌 日本とのかかわり(1920年代末-1930年代前半)P528-542

2018年4月26日木曜日

偏愛メモ 『日本開国』渡辺惣樹著

14 決闘、アメリカの騎士道 1841.08.25 メリーランド州クレイズヒル P96-102


15 感応寺破却 1841.11.17 江戸・鼠山 P102-110

P107 有り余る子女の配分 将軍家斉の行状については、幕臣の誰もが眉を顰めていました。頼山陽が「日本政記」で指桑罵槐により将軍を戒めようとしたのも当然のことでした。将軍があまりに子女を生産することによって大奥の力が強まります。お美代の方のインフォーマルな権勢で大寺院感応寺が建立されたことは他の宗門にとって面白いはずがありません。面白くないのはここに留まりません。将軍の子女を無理やり押し付けられる全国の大名もたまったものではありません。(中略)

P109 寺社奉行阿部正弘 再興になった日蓮宗巨大寺院感応寺は、大奥につとめる女官たちの息抜きの寺になっていました。外出の不自由だった女官らが禁欲の代償に、寺参りと称して城外の空気を吸いに行く。これを当然の贅沢と思っている者も多かったのです。

忠邦は感応寺の僧と大奥女官の怪しげな関係の調査を、寺社奉行阿部正弘に指示します。正弘は譜代大名の若きスターです。女官たちからの人気も高い美男子です。彼が高給女官三十余人を吟味して確認できたのは、彼女たちと僧日啓、日量(お美代の方実兄)、日尚(同甥)らとの淫らな関係でした。

「何も彼も委細承知しましたが、奥女中はすべて審理以外に置き、一人も処分しない方略を立てて、幕閣の同意を得ました」。大奥は処分しないけれども感応寺は許さないと決めた正弘。

2018年4月21日土曜日

偏愛メモ 『朝鮮開国と日清戦争』渡辺惣樹著

P80 保護貿易主義(高関税)により税収を確保し、幼稚産業を保護する。関税収入は惜しみなく産業基盤となる交通インフラ整備に使う。工業立国としてアメリカをイギリスに対抗できる大国に変貌させる。これがヘンリー・カレイやベシャイン・スミスの考え方である。

彼らの思想はアメリカ学派と呼ばれていた。アメリカ学派の考えをいち早く吸収したのが当時大蔵少輔(次官級)であった伊藤博文だった。伊藤は早くも1871年に銀行制度を学びにアメリカに渡っている。彼はその前年の1870年からアメリカ視察の必要性を熱心に主張していた。

旅順攻防戦といわゆる「旅順虐殺」報道 その三 怪しいジャーナリスト、クリールマン
P370 ニューヨーク・ワールド紙は、新聞王ジョゼフ・ピューリツァーが経営する、センセーショナルな報道で読者の好奇心を煽り、販売部数を伸ばしていた新聞であった。1895年からは、新聞王ウィリアム・ハーストの買収したニューヨーク・ジャーナル紙と激しい販売競争を繰り広げた。

2018年4月15日日曜日

偏愛メモ フィギュアスケート関連雑誌等切り抜き

■太田由希奈の生き方【Number747_20100218】画像クリックでオリジナルサイズ表示

■鈴木明子/太田由希奈/安藤美姫/浅田真央【Number567_20030123】

■『氷の扉』ナタリア・ドゥボワ著より

・クリモア・ポノマレンコ組の誕生P56-60

・サラエボからカルガリーへP104-120
クリモワ&ポノマレンコ、ウソワ&ズーリン、グリシュク&プラトフのコーチとしてナタリア・ドゥボワの真摯な姿勢を伺い知ることができる。ベステミアノワ&ブキン/クリモワ&ポノマレンコそしてタラソワに関する著者の見解が興味深い。

・アルベールビル・オリンピックP120-130
出会いと別れ、あまりに人間的なドラマ

・芸術としてのフリープログラムP140-156