2017年5月13日土曜日

メモ2017.05.13

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2017年5月11日木曜日

メモ2017.05.11

随時更新 偏愛メモ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか?」抜き書き

1 フランス的恋愛の原型は「不倫」

077 宮廷では恋愛は日常茶飯事
美しい響きを持つフランス語、世界をリードするファッション、洗練された料理…現在に至るまで、フランス文化の象徴として諸外国から憧憬されてきたものは、17世紀から18世紀にかけての宮廷社会から生まれた。

ルイ14世の絶対王制が確立してからフランス革命が起こるまでの百数十年の時代、フランスはほぼ現在の領土に定まり、ヨーロッパの中心として君臨する。そして輝けるフランスの象徴として、ヴェルサイユを中心とする絢爛たる宮廷文化が花開いた。

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この宮廷文化の基本に位置していたのが「恋愛」だった。宮廷で、恋愛は日常茶飯事。男女の艶っぽい会話やダンスが社交の中心を成しており、そういった交際の中で意中の相手を見つけだし、ラブレターのやりとりをしたり、果ては密会・情事になっていった。それが、宮廷文化の大きな要素として、いわば公認されていたのだ。

そんな宮廷文化をリードしていたのが、既婚の貴婦人たちである。彼女たちの多くは、地方の領地に夫を残して、宮廷の近くに館を構える。選ばれた人たちは、宮廷で生活する。そして、彼女たちは夫以外の貴族の男性と宮廷で恋におちた。

079 恋愛を"発見"した叙情詩人

この恋愛にはルーツがある。それはさらに500年前の12世紀にさかのぼる。ヨーロッパにおいて、「恋愛は12世紀の発明(発見)」と言われる。12世紀、キリスト教会の支配が行き渡り、その道徳観のもとで、恋愛感情は野蛮な卑しむべきものとされた。

そうした時代に、突如として、恋愛を高らかに歌い上げる人々が登場した。それが"トゥルバドゥール"と呼ばれる叙情詩人の一群だった。トゥルバドゥールたちは現在の南フランス一帯で活躍し、次第に北へ広がっていった、彼らは恋愛を価値ある崇高な新しい観念に仕立てあげた。そこで、美の象徴として、また、愛を捧げ、崇拝する対象としての女性が初めて登場したのだった。

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その後、トゥルバドゥールは、小貴族や貧しい騎士たち、商人、職人などさまざまな階層から出てきた。叙情詩に曲をつけ、歌ったり演奏することもあった。また、ジョングルールと呼ばれる放浪の職業芸人が、トゥルバドゥールに格上げされることもあった。トゥルバドゥールになると、領主の妻や上流貴族たちに保護され、生活は安定した。

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恋愛と結婚は別もの

彼らの詩のテーマは、「まことの愛」(フィナモール。純粋な愛。誠実な愛とも訳される)。それは、騎士が貴婦人に捧げる女性崇拝の愛だった。

しかし、それらの愛は報われることはない。なぜなら、騎士の愛の対象である貴婦人は、領主の妻など騎士より身分の高い既婚の女性だったからだ。当時、貴族の女性たちは、結婚してはじめて立派な貴婦人として認められた。

トゥルバドゥールたちは、いくら愛を捧げても成就することのない、身を焦がすような苦悩や、にもかかわらず恋する者だけが味わえる至福の喜びをうたったのだ。

このような恋愛は、のちに"騎士道恋愛"と名づけられた。騎士は、意中の貴婦人を理想化する。恋愛は、騎士にとって、試練を自分に課し、精神を高めていく行為だった。貴婦人と騎士の関係は主人と下僕であり、恋のためには、恋のためには、命をも投げ出す純粋さを持つことが騎士の美徳とされた。

この献身的な愛に対する見返りは、意中の女性から与えられる何がしかの好意的な表現である。女性は騎士にそうした表現で勇気を与える。貴婦人から愛の言葉が返ってきたり、接吻や抱擁にまで至れば、それは至福とされた。騎士道恋愛では、最後の一線を越えないことが節度とされたが、それが破られることもしばしばだった。

この型の騎士道恋愛がフランス的恋愛観の原型である。
つまり、フランス的恋愛のイメージとは、もともと「不倫」であり、結婚とは相いれないものだったというわけだ(これがイギリスとなると、意中の既婚女性は、時代を経るうちに、"お姫様"になってしまい、不倫のイメージはぼやけてしまう)。

当時、結婚は、封建制の下で家と財産を継承するための取り決めであり、自分で決めることではなかった。またキリスト教倫理のの下では、一度結婚したら、やめることのできない義務だった。だから、恋愛と結婚は別、ということになる以外はなかった。

082 世間の掟よりも愛に生き…
この騎士道恋愛は、ヨーロッパ人なら誰もが知っている物語で、恋愛の典型として長く親しまれてきた『トリスタンとイゾルデ』によくあらわされている。ワーグナーの歌劇としても有名だ。

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騎士道恋愛の典型はもうひとつある。それは、イギリス、フランスに伝わるアーサー王伝説のうちの『ランスロまたは荷車の騎士』。作者は、12世紀の北フランスの叙情詩人クレチアン・ド・トロウである。テーマは、やはり、騎士と貴婦人の「不倫」だ。

中略

この物語をハリウッドが好んで映画化してきた。かつての決定版としてはロバート・テーラー、メル・ファーラー、エヴァ・ガードナー主演の『円卓の騎士』がある。90年代には、リチャード・ギアがランスロ、ショーン・コネリーがアーサー王、ジュリア・オーモンドが王妃になる映画『ランスロット』(1995)があり、

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恋愛の基本型は女1対男2

このようにフランス的恋愛の原型は、不倫は不倫でも「女ひとりに男複数」であり、「男ひとりに女複数」は、あくまでもそのヴァリエーションでしかなかった。

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この女1対男2の三角関係は、文学でも演劇でも映画でも、フランスの恋愛の基本パターンとして現代まで連綿と続いていくのである。南仏のトゥルバドゥールたちが広めたこの恋愛は、宮廷でうたわれたことから「宮廷風恋愛(アムール・クルトウ)」とも名づけられた。

宮廷に恋愛賛美の気風を持ち込んだといわれるのが、最初のトゥルバドゥール、アキテーヌ公ギョーム9世の孫娘で、フランス王ルイ7世の王妃アリエール。彼女は、恋愛談議に花を咲かせる宮廷の演技者となった。

アリエールの娘、マリ・ド・シャンパーニュ伯爵夫人は、クレチアン・ド・トロウなどトゥルバドゥールたちの庇護者として知られる。彼女は、恋愛について自由に議論する「恋の法廷」を宮廷で催した。

法廷にかけられた問題は、たとえば、「真の恋愛は結婚したものの間にも存在しうるのか?」これに対するマリ・ド・シャンパーニュ伯爵夫人の判決は、「結婚したふたりには恋愛の権利は失われる。なぜなら、恋する者は、無償に与え合うものであるが、夫婦は、何事も拒み得ないという義務により結ばれているから」(1174年5月3日)というものだった。

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086 庶民は恋愛したか
神への愛だけを認め、世俗的な愛を否定し、生殖のためだけに結婚とセックスを許したカトリック教会は、貴族だけでなく庶民をも強力に支配していた。たとえ夫婦であっても過度に愛し合えばそれは「姦淫」に等しい(聖ヒエロニムス)、というのが当時のキリスト教道徳であり、愛による結婚などは社会秩序を破壊するものとみなされた。

中略

貴族より、農民のほうが婚前交際の自由があり、性交渉を持った相手との結婚を教会が認める場合もあったが、当人同士の意志よりより親や親族の取り決めが優先されるのが普通だった。

地方によっては未婚の男女が自由に交際する「娘小屋」や「宿貸し」などの風習がみられたが、16-17世紀には教会によって禁圧されていく。「愛ある結婚」という言葉がフランスでも少しづつ使用され始めた18世紀末でもこの状態は続いた(J・L・フランドラン著『性の歴史』)

また、たとえ愛ある結婚でも、結婚後、妻は夫への服従を強いられ、夫の暴力に耐えねばならなかった。夫の不貞は許されても、妻のそれは厳罰に処せられた。「恋愛の理想」とか「恋愛の観念」という言葉に表現されるような男女の関係を、庶民の生活の中に見つけることはむずかしい。庶民層においてセックスひいては愛は「するもの」であって「感じるもの」ではなかった、

中略

女上位の恋愛がもたらすもの

なぜ、12世紀の宮廷に「恋愛」が忽然と登場したのか。歴史家ジョルジュ・デュビィは、女上位の恋愛パターンが、当時の封建貴族とキリスト教会に受け入れられた理由のみを説明している。

それによれば、貴族たちは財産分けをできるだけ減らすために、長男だけを結婚の恩恵にあずからせ、あとの息子たちを騎士にして、冒険の旅をさせながら、あわよくば男兄弟のいない、領主権を相続する娘をかっさらってもらいたい(あるいは不可能の極みだが、領主の奥方をぶんどってもらいたい)と願っていたということだ(『女の歴史』Ⅱ・中世Ⅰ)。

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一方、キリスト教会は、結婚の内であろうと外であろうと、快楽だけを満たすような男女の結びつきを罪深いとしていた。とすれば、不倫しそうでしない、できそうもないのにできる、この「恋愛の理想」は、貴族たちにとっても、キリスト教会にとっても、はなはだ都合がよかったわけだ。

結果的に、この恋愛は騎士たちに試練を課し、彼らの精神を高めていくことで、まだ粗野だった南仏一帯に洗練された文化をもたらし、キリスト教と対峙する貴族文化を生み出す風土を培った。

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2 ギャラントリー

文化のショーウィンドウ

12世紀に始まったこの恋愛は、その後も宮廷社会の中で発展していった。それがもっとも爛熟したのが、17世紀後半に頂点に達したブルボン王朝の時代である。

今や伝統となった同じ宮廷恋愛でも騎士道恋愛から変化して、精神性を重視したプラトニックな傾向や、真摯な悲劇性が失われ、恋愛を楽しむゲームの雰囲気になってきた。17世紀の宮廷恋愛を象徴する言葉としては「ギャラントリー」がある。"優雅な趣味的恋愛"といったところだろうか。

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3 貴族とブルジョワ

104 旧貴族と新貴族
16世紀頃から、都市経済が発達するとともに大金持ちになった平民の商人たちをブルジョワジーと呼ぶ。

ブルボン王朝は、絶対王制国家をつくりあげるとき、このブルジョワたちの経済力を必要とした。彼らのほうも、没落した旧貴族の称号を金で買ったり、旧貴族と自分の娘と結婚させたりすることで、あっという間に新貴族として成り上がっていく。

ルイ14世の取り巻きで政治の要になった人たちは。みな新貴族である。17世紀の宮廷に、男女が必要だった理由は、ここにある。

中略

もともと旧貴族は、南仏のあの一帯を別にして、一般的に、戦争しかできない粗野な武人たちであり、高い教養を持つとはとても言えなかった。17世紀前半、まだ統一的な宮廷がなかった頃、ランブイエ公爵夫人の館に集まった旧貴族の遊びは、たわいないものが多い。

中略

かといって、ブルジョワ新貴族たちにしても、教養があるとは言えない。モリエールの戯曲『町人貴族』は、そん礼儀作法も知らず、しゃれた会話もできない、ただ金持ちだけの新貴族を徹底的に馬鹿にした作品である。わずかに、新貴族のうちでも、いわゆる法服貴族たちだけが教養の持ち主であったが、彼らはラテン語をふりまわし、ヤボくさいことこのうえない。

フランスの宮廷文化は、このように、しゃれた会話もできず、教養もなかった異質の

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人々が集まって、お互いにあげ足をとりながら、切磋琢磨してつくりあげたものなのである。

300年後の現代からすれば、あの宮廷文化は、はなはだ貴族的にみえるが、当時はその「貴族的なもの」の伝統が創造されつつあったにすぎない。

メレは、田舎の小旧貴族出身で、例外的に身につけた教養で売り出そうとし、貴族的なものの創造にあたかも自分がそのモデルになれるかのようにして参加した。

しかし、メレや武人にして博学の大貴族ラ・ロシュフーコーなど少数の例外を除いて、貴族的な洗練された文化創造のイニシアティヴをとったのは、むしろ新貴族の側だった。

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このようにつくられつつある理想としての貴族の世界では、ブルジョワのキリスト教的道徳に対して、美的な価値が優先する。ここに、あの極度に洗練された恋愛(ギャラントリー)が価値になりうる土壌がある。ブルジョワ新貴族たちは、ヤボだとばかにされないようにキリスト教的道徳をふりまわさないことで、どうにか恋愛を身につけていったのだ。

107 「貴族的なもの」とは何か

「貴族的なもの」が文学作品として結晶したのは、それから200年後、宮廷の貴族文化が消えてしまった19世紀後半のことだ。旧貴族の末裔であるヴィリエ・ド・リラダンは、革命後100年を経た、金のことしか考えないブルジョワ社会への侮蔑をこの作品にこめた。それが『残酷物語』の中の「ポートランド公爵」である。

ポートランド公爵は、家柄、容貌、知性と三拍子そろった非の打ちどころない人物だった。あるとき彼は旅先で、土地の人々から「近寄らないように」と言われた洞窟に、「ふと好奇心に駆られて」、「無頓着に」近づく。そこにいたのはハンセン氏病患者だった。彼は生まれ持つ寛容さで手をさしのべる。このため彼はハンセン氏病に感染し、領地から離れ、婚約者と別れて、一人で死んでいく…。

この「握手をする」行為は、無償であり、常に利害を計算するブルジョワには、とうてい実行できるものではない。「貴族的なもの」とは、このように
「寛容(genereux)」
「無頓着(desinvolte)」
「無償(gratuit)」
とリラダンは考えた(なお現在では、ハンセン氏病は一度握手したくらいでは感染しないことがわかっているが、昔はわずかな接触でも感染するとして恐れられていた)。


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没落貴族リラダンは、当時、赤貧洗うがごとしの生活をしていたが、それが自慢でもあった。ある日、知人が部屋を訪ねたら、彼は意外にも贅沢な食事をしており、あわててそれを隠したという。ブルジョワ全盛時代の屈折した彼の心意気が感じられる。

宮廷からサロンへ

貴婦人たちと奔放な恋愛を渡り歩いていたルイ14世は、王妃マリア・テレサの死後、一人の女性と秘密の結婚をする。そのマントノン夫人は、地味で慎み深く、王がそれまで関わりを持った女性たちとはまったくタイプが違った。

ふたりが出会ったのは、王が42歳、マントノン夫人が45歳のとき。王は、知的で物静かな彼女との会話に、人生の落ち着き先を求めたのかもしれない。

敬虔なカトリック教徒だったマントノン夫人は宮廷で大きな影響力を発揮し、華やかだった宮廷はすっかり影をひそめてしまった。教養ある彼女は女子教育にも乗り出した。裕福でない貴族の娘たちのために寄宿学校を開き、一般教養から芸術、家事などキリスト教道徳に則って未来の良き妻を育成する厳格な教育を施した。

マントノン夫人の登場で宮廷のギャラントリーに陰りが出て来た頃、かわりに宮廷で発展した文化を引き継いだのは、裕福な貴婦人たちが宮廷の外に開いたサロンだった。17世紀末の有名なサロンの女主人のひとりがニノン・ド・ランクロである。ニノンはマントノン夫人とほぼ同時代を生きた。彼女はその教養と美貌とで一世を風靡した。

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ニノンはその中で、将軍、詩人、医師、僧侶などと恋におち、85歳で息をひきとるまで恋愛を楽しんだ。生涯独身で、誰にも束縛されない自由人だったニノンが、今だれに恋しているか、戯れ歌などでパリ中の噂になったという。彼女は非婚で子どもを産んでいる。彼女は、死ぬ前に、当時12歳だった、のちの哲学者ヴォルテールに、「勉強のたしに」と遺産の一部を贈っている。

ニノンは多くの語録を残したが、「神様、私をオネットムにしてください。オネットファムにはなりたくありません」と祈ったという。彼女は教養ある「人間(男)」になりたかったのだ。

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18世紀にサロンを開いたのは、高い教養を身につけた裕福なブルジョワの夫人たちだった。彼女たちが開いたサロンには、多くの文化人たちが知的な交流を求めて集まるようになった。


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有名なのがジョフラン夫人のサロンだ。彼女のサロンには、ヴォルテール、グリム、ルソー、ディドロなどの名士が集まった。幼い日のモーツアルトもここで演奏した。ロシアのエカテリーナ二世やスウェーデンのグスタフ三世は、ジョフラン夫人と何度も手紙のやりとりしたという。この教養ある妻を持つ資産家の夫ジョフラン氏は無教養で、サロンの話には加われなかったそうだ。

サロンの女主人たちは、金銭的援助も含めて、男性の才能を引き出し、育てる役割を果たした。常連だった数学者ダランベールと恋におちたジュリー・ド・レスピナスのように、サロン内では恋愛も生まれた。宮廷の男女文化は、こうしてサロンに引き継がれていった。

ジュネーヴの山猿ジャン・ジャック・ルソー

18世紀のサロンに、その雰囲気にはそぐわない異質な男が出入りしていた。ヴォルテールによってからかいの種にされたその男、ニノンを女性の敵として憎んだその男の名は、ジャン・ジャック・ルソー。フランス革命の先駆を成した思想を唱えたことで知られる。日本でも中江兆民がルソーを翻訳紹介し、自由民権運動に影響を与えている。

ルソーはパリから見れば、"田舎"のジュネーヴの出身。都会の洗練された会話にうとく、
サロンでは「階段のエスプリ」(階段を降りる途中でやっと気づき、ワンテンポ遅れて笑う人)とか、「ジュネーヴの山猿」と陰口をたたかれた。
パリに出てきたものの、うまくとけこめなくて幻滅したルソーは、「自然に帰れ」を提唱する。貴婦人たちに、社交に明け暮れず、自然と親しむ田舎の生活をせよと勧め、自分の子どもを母乳によって育てることを推奨した。それまでフランスの中産階級以上の女性たちは、子どもを産むと里子に出し、子どもは田舎の乳母に育てられるのが普通だった。

母性愛」という概念は、この時代まではなかった。それはカトリック教会の原罪の教義と関係がある。聖職者は子育てについて、とくに母親を警戒した。母親は本来、原罪によって堕落したイヴの娘であり、誘惑にのりやすく、子どもに対してやさしすぎ、弱すぎることが多いからだ。「母性愛」は価値にはならなかったのである(イヴォンヌ・クニビレールほか著『母親の社会史』)。

ルソーの主張は、当時の女性たちに新鮮に映った。パリでは母乳を飲ませる母親が急増した。王妃マリー・アントワネットでさえ、赤ん坊を産着で締めつけず、自由に手足を動かせるようにする最新流行の育児法を実践した、といわれている。

ルソーが育ったのは、同じキリスト教でもカトリックに"プロテスト"したジュネーヴの新教徒の家庭であり、その価値観を彼はパリに持ち込んだのである。それは当時、非常に新しい価値観だった。

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ルソーは、教育書『エミール』の中で、新しい理想の男性像、女性像を描いている。

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彼は、エミールを「オネットム(貴公子)」にするために、なんと宮廷に出入りせず、田舎で育てるのが良いとする。その妻となるソフィーは「オネットファム(貴婦人)」としてエミールにふさわしい「同伴者」となるように育てる、とした。

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「女性は男性の気に入るように生まれついている…男性も女性の気に入るようにすべきだとしても、これはそれほど必要なことではない…。」ルソーは「女性に固有の使命は子どもを産むこと」だとし、「子どもを育てるには忍耐、心づかい、愛情が必要だ。女性は子どもとその父親を結び付けるものとなる」というように、子どもを育て、家庭を守るのが女性の仕事だと説いた。

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こうして「女性は一生の間、決して解放されることのない、このうえなく厳しい束縛を受けることになる。女の子はまず束縛されることになれさせて、それが決して辛く感じないようにしてやらなければならない。あらゆる気まぐれを抑えて、他人の意思に従わせなければならない」。

ルソーの提唱した女性像は、のちに日本に紹介され、「良妻賢母」というスローガンを与えられて人の知るところとなる。『エミール』は、ふたりが理想的な「夫婦愛」を実現しつつあるところで終わる。ルソーは『エミール』の中でニノンを「女性の美徳を軽蔑して男性の美徳を持っていた」として、親しくなりたくない女性と評している。

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実は、『エミール』には後日談がある。『ソフィーとエミール』というルソー自身が残した未完の短編である。夫婦となった後、エミールは当時の野心ある若者がそうしたように、ソフィーを残して武者修行の旅に出る。その間にソフィーはエミールを裏切り「不倫

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に走る。それを知ったエミールが傷つき、ボロボロになったところで…ルソーは死んでしまった。

山猿と呼ばれても、ルソーは、さすが、タダモノではない。きちんとフランス風の不倫パターンを守りながら、しかも250年後を予測していた!

いくら「夫婦愛」とはいえ、女性をここまで男性に従属させたら、どういうことになるか、彼はわかっていたらしい。

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ジョゼフ・ケッセル『昼顔』(1929)より「最高に素晴らしい歓び(le plus merveilleux plaisir)」→「霊妙至上の歓喜を味わった」(堀口大学)

2017年5月10日水曜日

メモ2017.05.10

2017年5月9日火曜日

メモ2017.05.09

2017年5月8日月曜日

メモ2017.05.08